システィーナ礼拝堂500年祭記念
ミケランジェロ展―天才の軌跡
先日 上野の国立西洋美術館で開催(2013年9月6日―11月17日)されているミケランジェロ展を観てきた。
ミケランジェロ ブオナローティ
( Michelangero Buonarroti 1475-1564年 )
イタリア盛期ルネッサンスの百花繚乱の期を代表する芸術家で、レオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロと同時期に彫刻家、画家、建築家、詩人のあらゆる分野で活躍しその偉業は後世に多大な影響を与えた。
詳しくは⇒wikipedia 参照
有名な作品としては
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| サンピエトロのピエタ (1498-1500年) |
ダビデ像 (1501-1504年) |
ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂天井画 (フレスコ画)(1508-1512年) |
などが有名である。
美術館内を順に沿って作品を拝見してみると、残念ながら上記の代表作は当然展示されていなかったが、小型のトルソーやシスティーナ礼拝堂天井画を描くまでの説明やデッサン等の習作が展示されていた。
彼の作品から伝わってくる意図、想いそして思想は色々な様相深い根拠が複雑に入り組んでいる様に感じさせられる。
精鋭された力強さ、計算尽くされた正確さ、研ぎ澄まされた作品に対する精神性が作品一つ一つに現れており、観る者に圧倒的な感応を与えてくれる。 まさに職人的技術と芸術的思想に導く表現方法を兼ね備えた才気煥発な人物だったと言える。
彼の作品を拝見して、一つ感じた事があった。
それは、人の肉体に対する賛美、信仰性があること。
どの作品からも肉体美が強調されている様に伺える。そしてその肉体美をより主張させるかのように、人体ポーズに動きのある官能的動作を与えている。まるでバレリーナのポーズの様に肉体とモーションが合致したときに生まれる美の様な。
ダビデ像を見ても、腕の大きさが強調されており、一見して通常の青年像よりたくましさを感じる。必ずしも人体の常識に沿った尺度での制作に試みているのでは無く、その動作に関しても同じことが言える。
なぜここまで人の肉体に思い入れがあるのかは不明だが、 一つ思い当たるのが旧約聖書の創世記2章7節に記 されている。
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」
神が土で人の形を作り、そして命を吹き込んだのが始まりと言う思想に基づいているのかと彷彿させる。彼が描いたシスティーナ礼拝堂の天井画のフレスコ画に描かれている 「アダムの創造」 はこの一部である。また、同じ肉体でも動物の肉体を描いていない。あくまで人間の肉体に対しての思想のようだ。肉体は神からの贈り物と言う思想が、ミケランジェロの芸術的思想の基盤になっているのかと思う。
またこれを裏付けるかの様に、ミケランジェロが当初天井画に描いたフレスコ画の人物像には衣類を描かなかったらしく、のちに他の画家が衣類を描き足したと伝えられている。旧約聖書の創世記によれば、エデンの園で裸で暮らしていたアダムとイヴだが、イヴがヘビに唆されて”禁断の果実(善悪の知識の木)”を食べ、アダムにも分け与えた。その果実を口にした結果アダムとイヴの無垢は失われ、裸を恥ずかしく感じる様になり、局部をイチジクの葉で隠すようになった。その結果神から楽園を追放され、生きる苦しみと死を与えられたと記されている。 ミケランジェロが衣類を描かなかった理由はここに接点があるのかと思う。
システィーナ礼拝堂の天井画のフレスコ画に描かれている人物像をよく見ると、剛健な気風で描かれているのに気づく。男性像に限らず女性像にも同じように筋肉で覆われたその体からはたくましさと力強さに満ちた表現となされている。
いにしえより宝飾品や美術品は王の権力の象徴としても献上されてきた。それによって広く民衆に王の権力を知らしめる事ができた。筋肉は権力の象徴でもある。この天井画は何か権力で民衆を制圧もしくは服従させる意図で作られたのかと感じた。ピラミッド社会の頂点に立つものが権力を持った王とするならば、底辺は民衆である。この天井画の天井の頂点より剛健な気風で描かれた絵を民衆に高く見上げさせることで、国家として王として民衆を従わせる意図はあったと感じさせられた。
ある意味、宗教を権力化させた時代が背景にあったのだと思う。建物にしても高さを高くすることは権力を意味する。人々は高いところを見上げることによってより偉大なものを崇めているかのような錯覚に陥る。エジプトのピラミッドや日本の富士信仰にも言える事だろう。
本来の宗教は誰もが平等であり、人の心を平安に導く個々の喜びでもあった。もしその様な教えの教会ならば、天井は低く、民衆の心の拠り所と同じ位置にある優しい希望に満ちた素朴な絵が描かれたのかと思う。
元々、教会内に絵が描かれるようになったのは、当時文字が読めなく聖書の入手も困難だった時代に、聖書の教えを壁画として伝える手段だった。そこで壁面に漆喰を塗り描くために使用された絵画技法がフレスコ画である。
この壁画から伝わってくる絵の様相は、ミケランジェロがその権力者の理想に沿って描いたかのように見えた。力強くそして迫力のある絵を依頼されたのかと感じた。ある意味不本意な気持ちはあったのかと。
館内でシスティーナ礼拝堂天井画のフレスコ画の製作にあたってのビデオが巨大スクリーンで放映されていた。
高性能なカメラがヴァチカン礼拝堂内に潜入し撮影をしたものでリアルな撮影が視聴できた。
ここでミケランジェロとその弟子たちが描いたフレスコ画だが、これはフレスコ画の中でも真の、本当のフレスコ画と言われているブオン・フレスコ(またはアフレスコ)という画法で描かれている。
フレスコ画の特徴である”画面の継ぎ目”も見られた。よく見ると、壁画上のブルーの箇所の色が継いだ様に見える。
建物内の壁に、今日描ける分の漆喰を塗り、そこに水で溶いた顔料(色の粉)のみで描き、壁が硬化すると石灰の結晶(カルサイト)でその絵が覆われて絵が保護される。
カルサイト層に覆われた絵は色がとても澄んだ鮮やかな色となり、教会内の崇高な礼拝には適した壁画となる。
カルサイトとはカルシウムが二酸化炭素と触れることによって生じる結晶であり、宝飾としても使用されている。
展示の最後の方に「階段の聖母」があった。ミケランジェロ15歳の時の作品で大理石に浮彫(レリーフ)がなされている。
今回の展示で目玉とされているものだが、15歳の時に作ったというのだから驚きである。早くに才能を発揮したのだと納得させられた。
どういう意図でこの作品を作ったかは謎とされている。
マリアが幼きイエスを抱えているが、その眼差しはここに非ずであろう。まるでイエスの将来を暗示しているかのように、その階段の背景の左上には子が何か角材を持ち階段を上り歩いているかのように思える。角材が十字架でそれをイエスが階段をつたって自身が磔刑を受ける場所まで運んでいる姿が反映されているのかと思う。この階段はイエスの今後背負うであろう宿命とも解釈できる。
最後にキリストの磔刑(たっけい)があった。まるで先ほどの「階段の聖母」の内容を裏付けるかのように傍に陳列されていた。ミケランジェロ 87歳の時の作品である。88歳没なので最晩年のもしくは人生最後の作品ともいえる。
私的にはこの作品に愛着を感じた。今までの作品を見ると人物の形を完全に作り上げルネッサンス期独特の美を表現していたが、この作品は木彫のノミ痕を風合い良く残し、その元である木と人間像を一体化させ作り上げている。
木彫には大理石では醸し出せない独特な風合いもある。木には年輪からなる木目や繊維質より素材の”力”が強く出るので、木彫による作品はその偶像形態と、母材となる木の質感が相乗効果となる。まるで木より突出した偶像のような印象を与える。日本の円空を思い出した。
ルネッサンスの時代の作品勢は、先ほどのピラミッド社会のように”生あるもの”全ての中で、人間が頂点に立つ「人間主義」のように感じてならない。人を司る形が美の頂点に立つ、人間謳歌の様な作品が目に映る。
しかしこの作品は人間と木が一体化して作られており、一体何を表現しているのかが曖昧に感じさせられる。具体性をはっきり問う民族からしてみれば「未完の作品」「大きな作品を作るための習作」と言われるかもしれない。まして、完璧な形状の美を作れるミケランジェロがこの様な像を作ったのならば尚更である。
しかし、思う。
この作品は、権力者が築いた時代の風潮に翻弄され、ルネッサンス美術を作り上げそれによって多大な作品を残し全うした末にミケランジェロが気が付いた今後の造形もしくは芸術、人間社会の進むべき方向性なのではと感じた。
自然と人間の調和。 後世に告ぐ語り草の様に。






